2017年3月11日土曜日

3・11に寄せて

今日は3月11日。
火鉢クラブを始めたのは2010年の秋のことで、震災と原発事故の半年前だった。もともと文明の利器の乏しい家庭に育ち、小学生までは五右衛門風呂の風呂焚きを手伝っていたりもして、火を熾すということが日常にあった。火鉢が家にあることにも全く違和感がなかったから、特に原発事故後に思い立って火鉢クラブなんて言い出したわけでもない。

火鉢や五右衛門風呂なんていうと、田舎の里山にでもある古民家かと思われそうだが、昔の家は小さな地方の商店街にあり(昔は消防法もゆるくて、家には煙突があった。商店街に新しいアーケードができて、煙突は違法になり、湯沸かし器に変わった)。ちょっと歩けば海があったり、みかん山があったりはしたが、市内では街中のほうだった。かつては東京の民家のどこの家にも火鉢はあったわけで、火鉢は日本中の街中の民家でも普通に使われていた。

室内で直火を使う火鉢は怖いという人もいるが、私が子供の頃、火鉢の火が何かに引火したという経験は一度もない。だからといって、今の東京で火鉢を使っても大丈夫ですよと単純に言うつもりはない。家の密閉性も高まっているし、最近の人は火の扱いを知らないからだ。

火鉢カフェのイベントをやっていると、炭火を自分でつけたことがないという参加者が思いの外多い。考えてみれば、今や家の中で火を目にすることは皆無に近づきつつある。台所のガス台もIHに変わっていたり、仏壇や神棚のろうそくも電気になり、唯一目に見える火種だったタバコも風前の灯である。そんな暮らしの中で、火の扱いがわかるわけがない。

火の扱いを知っていれば、火鉢はそれほど危ないものではないと思うが、全く知らない人が使った場合、どうなるかはわからない。

じゃあ、もう時代遅れなんだし、使わなければいいじゃん。なぜそんなものにこだわるの?と言われそうだ。でも、やはり火鉢の歴史をここで途絶えさせたくはない。

それはなぜか・・・。「火を扱う能力」というものはどこかで残しておいた方がいいというからだ。

火というものの性質も扱い方も知らないで、ただ怖がる。触らぬ神に祟りなし。そういう思いで、スイッチひとつの家電を使う人たちは、電気を生む「原発の中の火」がどれほど怖いものかを理解していただろうか。原発が核分裂の熱で湯を沸かし、タービンを回して電気を生んでいたということを知っていただろうか。火力発電所もしかりで、電気を起こすためにゴーゴーと火が燃えている。それをイメージして電気のスイッチを入れていただろうか。

暖房は火鉢、調理は七輪やおくどさん、行灯の火で明かりをとっていた頃、それは家族の一人一人が自ら危機管理するものだった。しかし、今や電気代と引き換えに危機管理もどこかの誰かに丸投げしている。そして、その危機管理が自分の身近なところから消えたことで、私たちは危機管理自体も消えたごとくに感じていたのではないだろうか…?

どこかでよくわからない大きなシステムが動いている。よくわからないけど、それはエネルギーを生むらしい。危険かどうか?安全だと聞いているけど・・・。そして事故は起こった。

家庭で日常的に火を使わなくなったとしても、火の扱い方や火の知識は身体で知っていた方がいいと思う。それが火に対する正しい「怖れ方」にもつながると思う。

火を手に入れたことで人類は文明への一歩を踏み出した。そういう意味でも、「火を知る」ことは、人類が作り出した技術やシステムが「人類自らが扱い得るレベルのものか否か」を本能的に嗅ぎ当てる能力を強化してくれるのではないかと思う。

「これは危ないかもしれない…」
火の姿を眺めていると、さまざまな局面で危険を察知する直感を養うことができるような気がするのだ。

火鉢はそんな小さな火をもっとも手軽に扱える道具ではないかと思う。

二度とあんな事故を起こさないために、私たちの穏やかで楽しい暮らしがずっと続くためにできることとはどんなことなのか。今日はそんなことを考える1日にしたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿